「惑星の暗号」
          
グラハム・ハンコック著


  「NASAは重大な何かを隠している」という主張に嫌悪感を覚える人がいることは承知しています。特に近年はインターネットを活用し情報の公開(というよりはPR?)に熱心なNASAが「まさか情報隠しをしているなんて」と思われるのが一般的かと思われます。しかし、それでもなお「やはり重大な情報は公開されていない」という疑念を表明する著述家は絶えないようです。この本もその系譜を継ぐ一冊になりそうです。



  万物はみな表があれば「裏」があるもの。国家の一機関としてのNASAもその例外ではありえないとすれば、ではその裏面とは?と思うのが私のような世俗的人間の関心事であると言っても許されるでしょう。そう、「そこが知りたい」のです。ハッブル宇宙望遠鏡の映像も美しい、続々送りこまれる火星探査機の成果もすばらしい、スペースシャトル搭乗の日本人クルーの活躍もうれしい、彗星のチリを捕捉して帰還するスターダスト計画、木星や土星の衛星の映像、月の両極部での氷の発見などなど、NASA発のニュースは宇宙の果てへの好奇心の翼をますます広げ、毎日がエキサイティングです。その少年時代の夢が今まさに日々現実になりつつあります。

  それを「表」の顔とすれば、しかし一方でなにか見えていない部分がずっと影のように隠されているのでは?という疑いが払拭できないのはなぜでしょう。このような疑念を持つことが後ろめたいことだとは思わない。私はいわゆるコンタクティーや予言家の語る「話」を丸ごと信じることができない一方で、NASAや科学者たちは情報隠しなどしていないのだ、と“全托モード”になってしまうことにもためらいを覚えます。

  懐疑的なスタンスは人間理性の健全さを示していると思うので、その対象が何であれ「疑う」という姿勢はまさに科学的であり理性的・論理的な態度に他ならないし、「信じる」ことから生まれるリスクを分散し、裏切られたときの心の痛手からわが身を守る処世術とも言えます。

  ハンコックのような見方は、正統的学界や研究界の主流から見れば少数派か異端、あるいは曲がっているかもしれない。著述家として一風変わったテーマ性、問題作発掘、売れ筋を狙った市場性などを視野に収めたプロ意識の産物かもしれない。仮にそのような動機があったにしても、昨年マーズ・グローバル・サーベイヤーの撮影画像の公表で“一見落着”したかに思われた火星人面像の謎に、あらためて一石を投じた著作として私には面白く読めます。

  火星での発見が人類のアイデンティティーともいうべき中枢部の大刷新を迫るインパクトを秘めたもの、宇宙へ進出する文明が必ず踏み越えねばならない通過儀礼(イニシエーション)のような意味あいを有する出来事なのだとすれば、それを避けて先に進むわけにはいかないだろうし、その時期は刻々と迫っているといえるかもしれない。

  1999/02/13



  『惑星の暗号』を読んでいていろいろ参考になることが多いのですが、ようやく第14章「情報操作」において「NASAは国民の税金で運営されている。にもかかわらず、NASAが最終的に責任を負っているのはアメリカ政府であって、国民ではない」という一文に目がとまりました。情報公開先進国のアメリカであればこそ、そのへんの線引きがシビアに行われているらしい。

 これに関連して「ブルッキングス報告書」が何を意味しているのか。たんに
国防上の理由だけでなく「国民あるいは社会の混乱をもたらす恐れのある情報」と、そうでない情報があるのは厳然とした事実で、前者は封印され、後者は公開される。当然といえば当然ですがこの前者の方に月面や火星探査などのさいの「公表できない事実」や半世紀にわたって続く「UFO問題」がどうも含まれているらしいように思われます。

  「ダイオキシン→葉っぱ物→ホウレンソウ→野菜不買」という風評の拡大連鎖は、あのラジオドラマが発端となった「火星人→地球襲来→パニック」という連鎖にも似ています。つまり正確な情報が不足している状況の中での「誤判断の増幅現象」とでもいいますか。これを避けるには、完全な独裁政権下での徹底した情報統制、つまり問題のある情報を一切出さないというやり方。これはネガティブな策で、現代の高度情報社会ではもちろん非現実的な話です。

  当
然ポジティブな対応をしていくべきで、そのやり方としては、普段から正確な情報を広く伝達し、誤解や誤判断を生みにくい情報環境に整えておく手法が考えられます。あいまいな表現から拡散した「葉っぱ物」が変化していく連想ゲームを速やかに断ち切り、正しい情報に復することのできるシステムが必要でしょう。

 そこで話を火星に戻します。かねてからうわさされていた「火星の顔」が仮
に確かな人工物として認知され、太古の火星に築かれた先代文明の遺産だったとします。そのニュースは重大な発表として世界中を駆け巡るでしょう。が、それが現代社会においてどんなインパクトを生み、社会的変化、あるいは影響をもたらすでしょうか?

 一般的には「へえ、そうかよ」とか「やっぱ火星人はいたんだ」程度の反応レベルにとどまるかもしれません。しかし反応のほこ先がNASA自体に向かうと困ったことになります。「NASAあるいは政府は以前からその事実を知っていたんじゃないの?」とか「もっと他に隠していることがあるかも」とか「非合法的な情報隠蔽工作をしていなかった?」といった疑惑の世論が高まると、まさに自害行為に等しい状況となります。

 もしこのような忌まわしい過去がまったくなく、クリーンな業績のみを誇れるなら「火星の顔」の確認は、宇宙時代を迎えた地球人類の新しい第一歩を象徴する歴史的出来事として、むしろ他国に先んじて正々堂々発表できるビッグニュースであり、更に火星探査を加速させ、NASAの宇宙開発プロジェクト全体を押し上げる国民的支持を確立することにもなると思います。

 好意的な解釈をすれば、NASAは「火星の顔」に関してある程度「人工的造形物」の心証を得ているが、軽率に発表した後にもし「光と影のトリック」であることが判明したときの責任はどうするのかを懸念し、まだ百%の確信が持てず慎重になっているのかもしれない。がしかし、そうとは思えない。
 果たして本当にあれは「光と影のトリック」に過ぎないのだろうか?

 この半世紀近く、人々はスクリーンやTVを通じて多くの物語を「学習」しました。TVが家庭に普及を始めた1960年代の見るからにちゃちな宇宙人襲来映画から、デジタル合成技術を駆使した最新のSF映画まで、時を超え、宇宙空間を超えて襲ってくるさまざまなスタイルのエイリアン、あるいは知的文明との接触が映像化されました。「想像を超えた」という形容があるにしても、所詮人間の「想像力の限界」は高が知れています。

 「この種の考えはおそらく空想の域を出ない」と前置きしながら、著者は以下のように付け加えています。

 しかし、一方では『インデペンデンス・デイ』『スターゲイト』『未知との遭遇』などの映画や『X-ファイル』『ダークスカイ』などのテレビドラマ、あるいは火星から飛来した隕石中の「原始」生命の可能性についてNASAが情報公開に踏み切ったことなどすべてが、ETとの接触にあまり抵抗を感じないような状態に世論を導いたことは否定できない。

 とすれば「(人類の)機は熟せり」の“GOサイン”が発せられるのはいつ、そしてどのような形でだろうか?


   1999/02/20


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