
私的体験を客観化することの困難さ UFO体験者に共通する障壁 |
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UFO体験のほとんどが風化 UFO問題を考える場合、私は科学的思考態度の重要性をじゅうぶん認識しつつ、既存の科学的パラダイムから離れたところに想像力の基点を置いて、大胆かつ自由な思考を膨らましていくことも大切であると思っています。 仮に私が「常識ではとても考えられない」、あるいは「科学・技術的な種々の概念に照らし矛盾がある」現象に直面し、目撃や体験をした場合、その当事者である私は、その体験をどのように客観化し、第三者に認知してもらおうとするでしょう? これはすべての「私」に共通する課題です。UFO問題の多くが実はこのような、さまざまな異常体験の当事者である「私」と、それを取り巻く「社会・人々」との間の情報伝達上のコミュニケーションの壁、さらに科学的客観化を行う上での技術的な壁にぶち当たっているのです。 もし誰かが高橋克彦氏の小説『総門谷』(講談社)の冒頭にあるような体験をした場合、その体験はプライベートなものから社会的なものへと客観化することは果たして可能でしょうか? もし私が山道を一人で歩いているとき、空にとてつもない飛行物体を見てしまった場合、そのプライベートな体験は第三者に認知しうるものとなるでしょうか? 残念ながら「ならない」と思います。どんなに誠実に、どんなに正確に、どんなに多くの言葉を尽くして第三者に語り伝えても、その体験は最終的に「科学的」評価に耐える情報にはなり得ないと思います。 では、運良くカメラを持ち合わせ、その「物体」をフィルムに収めたとします。現像所で処理を済ませたプリントには、見事にその「物体」が写っていました。 このプリントはその人が見たという「とてつもない飛行物体」の、その「とてつもなさ」を示す証拠となるでしょうか? すべてのトリックの可能性を厳密に排除した後で、その写真が証拠として採用されたとしても、写真にはカメラのレンズを通し感光乳剤に反応した「光学情報」しか記録されていません。 その物体に付随する他の物理的な諸効果(音、振動、感光域外の電磁波、動感、風圧、匂いなど)、そしてより大きな意味を持つと思われる当事者への心理的な効果(意識感など)の情報は、残念ながら写真からは読み取ることができません。 そこで第三者は、「あなたが撮ったものは、確かに写っています。それは、鳥でも星でも、既知の航空機でもありません。しかし、それが『何であるか』をこの写真から断定することはできません」という結論にとどめるでしょう。 しかし、当事者は少なくとも「自分が何かを見たことは事実だったこと」を第三者に認められ、満足感を得るかもしれません。が、ここまでたどり着くケースはむしろ稀でしょう。 世界中で百人の「私」が似たような体験をしたとしても、それが社会に客観化されるケースは非常に稀ではないかと私は推測します。仮に写真という証拠があったにしても、ピンぼけだったり、ブレていたり、露出が不適正だったり、相対的な位置関係の情報があいまいだったりなどの、さまざまな疑問点から厳密な検証に耐えないものが大部分ではないかと思います。 それらのケースも含め、大部分のUFO目撃報告は「自然現象の見誤り、飛行船、金星、鳥、人工衛星、航空機、風船」などであるとする公式報告書が、かつてまとめられたのはご承知のとおりです。 しかし、これよりもはるかに膨大な未報告の目撃体験が、現在も引き続き世界中の数多くの「私」に生じ、表に出てこないプライベートな体験として、あたかも発芽条件がいまだ整わぬ種子のように、それぞれの心の苗床に眠り続けているのではないかと私は推測するのです。 1993/11/12 サブメニューへ戻る |
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| ----aquara |
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